愛知用水と地域での出会い         山田光敏


 

 平成23年は愛知用水通水50周年にあたり、水源地王滝村から関係市町を中心に愛知県主催の記念事業がほぼ一年を通じ行われました。記念事業の最後として10月30日には名古屋市内で愛知県知事をはじめ関係主官庁や法人代表出席の感謝祭が、約千人の市民参加により盛大に行われました。

  

  • 昭和3010月 愛知用水公団設立

 

愛知用水事業の始まりは、第2次大戦の終戦直後の極度の貧困と食料難、水不足に対し、当時の篤農家久野庄太郎さんと、半田農学校教師浜島辰雄さんの2人を中心とする農民団体の必死の訴えでした。これが時の県知事をまき込み農林省に働きかけ、更に時の吉田総理の心を動かし、終に世界銀行(以下世銀)の借款に結びつき、昭和30年10月に愛知用水公団が設立されました。

  

  • 昭和3610月 愛知用水 通水

 

かくして農業、工業、上水、発電による戦前戦後初の総合開発事業が、実質4年の工期と総事業費423億円(現時価数千億円)により、永年の農民の夢の用水事業として昭和36年10月30日通水を開始したのであります。

 

通水開始後間もない昭和 39 年9月、東海道新幹線開通と東京オリンピックのほぼ同時開催となり、受益地域は勿論、愛知県の高度経済成長に拍車をかけました。これによって、愛知県の工業生産高は間もなく日本一となり、現在に続いていることは皆様もご承知のことと存じます。

 

以上の他、愛知用水事業の決して忘れてはならない効果として、人材の育成があります。

  

  • 昭和372月 農業土木技術集団三祐コンサルタント設立

 

世銀に代わってプロジェクトの技術的事項を計画、実施したのはアメリカの民間企業 EFA社のコンサルタントでした。彼らがスペシャリストとして自信と責任をもって(世界銀行の借款による)大型土木機械による工事を迅速に進めてゆく姿に、我々公団の技術者は等しく感銘を受けました。全国から集まった技術者が、新しい技術を学んだ愛知用水公団は、愛知用水大学とも言われるほどでした。事業完了後公団卒業者は、この様な新しい技術専門企業の設立に向けて、農業土木コンサルタントを企業された方も大勢おられました。

 

そして、これに先鞭をつけた久野庄太郎さんは、この時既にイランを中心に中近東の開発の構想を抱いておられ、愛知用水事業完了間もない昭和37年2月、公団卒業専門家数名を中心として三祐コンサルタンツインターナショナルを設立されました。時に久野さん60過ぎ、浜島さん40台半ば過ぎの働き盛りの時代でありました。

  

  • 昭和30年 公団設立までの10年間 農林省で

 

ここから、愛知用水と私の係わりについて述べます。私は終戦直後の昭和 21 年に学校を卒業し、当時の農林省農地局計画部技術課(課長は清野保氏、その後の世銀交渉の直接の担当者、後に愛知用水公団副理事長)にて食糧増産緊急開拓計画に取り組んでいました。既述の如き陳情に心を動かされた吉田総理の内諾を受け、昭和25年頃農林省は急遽、直轄にて愛知用水計画の調査を着手することとなりました。この調査の係員として私の2年先輩の Y 氏と私、2年後輩の T 氏が任命されました。それ以来、久野さん達と直接お話が出来るようになりました。彼らとの忘れえぬ思い出がいくつもあります。上京した久野さんからお土産に白米の大きなおむすび(銀しゃり)を私ら課員にも頂いたことがありました。更に又私達担当者が、一夏(昭和26年頃と思います)浜島さんの案内で受益市町村の現地調査に駆け回ったことを今でも懐かしく思い出せます。

 

今省みますと、この愛知用水担当係員に任命されたことが、私のその後の長い人生に対し現在に至るまで強い影響を受けるようになるとは、当時は全く思いもよりませんでした。

  

  • 昭和314月 愛知用水公団本部へ出向 名古屋に赴任 

 

牧尾ダム~愛知池を担当

 

農林省は昭和27年度より名古屋に直轄の木曽川調査事務所を開設し、上記 Y 氏が調査課長として赴任し、愛知県(耕地課)との協働作業で愛知用水計画を準備し、それに基づき本省で世銀借款計画書を作成し、世銀に受理されることとなり、昭和30年10月愛知用水公団の設立となりました。これと同時に本省よりの数人の公団幹部職員とともに、私達若い技術者も出向を命ぜられ、翌年4月私は家族ともども名古屋の本部に赴任しました。

 

公団での私は本部工事課の係員として、又 EFA のカウンターパート(公団側協力者)の一人として、牧尾ダム及び三好池、岐阜県の松の池ダム及び公団発足後の計画変更で新たに追加となった東郷調整池(愛知池)を担当しました。そうして忘れもしませんが昭和34年秋の伊勢湾台風直後、用地交渉で遅れていた愛知池ダムの工事が着手されました。

  

  • 昭和34年~45年 中四国農政局、北海道開発局、北陸農政局

  • 昭和455月 農林省退職 三祐コンサルツに入社

 

これをもって私は任務から解放され、同年12月中四国農政局の新設間もない道前道後農業利事業所(松山)の工事課長に赴任しました。約 4 年の在職中(昭和3 6 年頃と思いますが)久野さんご夫婦が高知旅行の途中立ち寄って頂き当時県庁にあった土地改良区にご案内し私の官舎に一泊して頂きました。それから、北海道開発局、北陸農政局の農業水利事業所の所長を経て、昭和45年5月、24年間の役人生活に別れを告げ、当時正に発展途上であった三祐コンサルタンツに入社しました。 

  

  • 昭和455月 三祐コンサルタンツ 入社

  • 昭和45年~平成2年 

 

インドネシア、ビルマ、パキスタン、イランのプロジェクトの調査団長

 

  • 平成2年 三祐コンサルタンツ退職

 

時まさに我国の高度経済成長期にさしかかり、札幌支店、岡山支店開設も入社後であったと思います。私は国内事業をはじめ農業土木事業協会本部(東京)のコンサルタント部会長兼ねてコンサルタント業界の改善にかかわっていました。しかし当時の私は国内事業よりもむしろ海外プロジェクトのコンサルタント業務に興味と生きがいを抱いておりました。国内事業の傍ら国際協力事業団( JICA )の調査団長として、10人前後の専門家とともに、インドネシア、ビルマ(当時)、パキスタン及びイランの5つの F/S ( フィージビリティ・スタディ : 実行可能性 . 調査 ) プロジェクトを、夫々数ヶ月から一年有余をかけて完成させて頂いたことに、感謝と誇りを感じています。

 

かくして昭和45年から約20年間三祐に在勤し、昭和時代から平成時代に移って間もなくバブルがはじけた丁度その時(平成2年)退職いたしました。この20年は先にも述べた如く、コンサルタントの民間技術者として私の人生の40台後半から60台半ばの最も輝いたときであったと今深く感謝している次第です。

 

  • 退職後のボランティア活動

  

 平成12年  NPO法人 サンコムネット設立

 

平成12年  くらしのサポーターさわやかさん設立(NPO化 平成17年)

 

平成14年  ゆるやかネットワーク設立

 

平成17年  NPOあいち池友の会設立

 

平成19年  和合ケ丘サロンひだまり設立

  

サンコムネットのスタートは、平成八年六月、「尾三ネット」を設立 (会員10名)で始まりましたが、その前段で平成7年「愛知コミニュテー研究会」愛知県立大学の中田、新海、小栗の各教授の皆さんや県下のグループで、コミニュテイ作りを話し合う中で、小栗さんからパソコン研究グループを立ち上げたらとの提案を頂いたのが「尾三ネット」の始まりでした。

 

平成911月、サンコムネットを設立、会員17名で、尾三ネットを発展的解散を致しました。山田剛一代表を中心に当時貴重だったデスクトップパソコンを担いで、日進市市民会館や東郷町民会館、長久手町たいようの杜等を点々として勉強会を実施してきました。当時は会場探しに大変苦労した覚えがあります。

 

平成124月、特定非営利活動法人サンコムネット(代表者に山田剛一さん)会員数70名で法人としての活動の緒につきました。幸いにも政府において経済企画庁長官・堺屋太一氏によりパソコン業務推進が提唱され全国的にパソコン普及啓蒙が図られました。

 

 

 

平成134月、日進市と共催で「お元気パソコン教室」を開催、大変な盛況ぶりで、この結果愛知県担当局の注目を浴び近隣の行政担当者の視察が多々ありました。そんな折、森内閣が打ち出した「IT講習会」が全国的に実施され、日進市の要請に応えることになります。またパソコン技術とは別に地域貢献の立場から、行政との公平な受託事業のルール作りを目指し、平成178月、愛知県の神田知事と「あいち協働ルールブック策定一周年記念事業」に参加、平成18年五月「にっしん協働ルールブック」採択、日進市佐護市長と共同声明調印式を行いました。

 

 

 

退職後今日に至る20余年間は、世間の一部から経済的には閉ざされた20年と称されていますが、幸いにも私は NPO 活動に専念することが出来ました。

 

中でも平成17年に設立した「愛知池友の会」(会員約60余名)では、今日まで6年余愛知池及びその周辺の水辺環境の整備活動を行うことができました。そんな折に起きた、去年3月の東日本の大地震は、災害に対して日頃の備えの必要性と、生活上のエネルギーの大切さを我々に教えてくれました。このことは同時に、やがて訪れるであろう世界的水不足や食料の不足・高騰に対して、現在の豊かな木曽川水源流と愛知用水の上に安住している我々に対する厳しい警鐘でもあります。

 

こうした時たまたま去年、愛知用水通水50周年を迎え、愛知県当局は約半年に亘り大々的な記念事業を実施いたしました。これに呼応して私たち愛知池友の会は愛知池周辺の市民や NPO による感謝祭としての「愛知池ウォーキング」を去年10月20日企画いたしました。しかし当日は朝からの雷交じりの降雨のため為急遽中止のやむなきに至りましたが、それでも幸いにも小雨の中、一部の参加者450名が我々の本部にて記念品を受け取って頂きました。 更に愛知池友の会の主要な活動目的である愛知用水の受益地域と木曽川水源地域との上下交流活動の促進については、各受益市町当局や法人・企業や NPO により夫々単独ではありますが、その胎動は既に始まっております。我々の活動がこの活動の一助となり愛知用水に対する関心の高まりと関係団体の交流が一層高まり、全受益者が一団となって、来るべき次の50周年にむけて上下流の交流や市民活動が活発になることを願っています。

 

 

 

【ふれあい居場所の開設について】

 

和合ヶ丘地域の最大のまちつくり課題は、何といっても高齢者介護ではないでしょうか。和合ヶ丘の高齢化率33%は東郷町及びその周辺市町の団地の中でも最高の現状です。行政中心で運営されている(公助)介護保険制度に市民は多大の期待を寄せていますが、高齢者の急速な増大、ヘルパーの待遇の悪さによる人員減、行政予算の減少等により今後はあまり期待は出来そうもありません。

 

 むしろ地域や住民の自立による自助、共助により介護予防、在宅介護制度の整備・拡充が説に望まれると思います。なかでもその第一歩として、自治会、NPO、市民等による「ふれあい居場所」の開設により、老若男女誰でも自由に出入りして、会話や遊戯を通じての孤独や断絶の解消、更には生活上の悩みを打ち明けられる場、寄り合いの場、助け合いの場、情報受発信の場としてそのエネルギーを発揮することを願っています。

 

 自助、共助があっての公助であることを自覚すべきと思います。今後〝さわやかさん”の活動に期待するところは大きいです。

 

     (NPO法人 くらしのサポーターさわやかさん設立10週記念誌から)

  

 

【山田さんの最晩年期の拠りどころ】

 

平成19年に設立した和合ケ丘の「ひだまり」の場が今後も賑やかになることを期待してやみません

 

  • 次世代に次の 50 年に向けての提言

 

平成23年3月の東日本大地震以来、原発をはじめとするエネルギー問題が国内をはじめ世界的課題となりました。このエネルギー問題は我々の生活の利便性や快適性のためであります。

 

しかしながら一方では、世界的規模の人口増加、経済発展や異常気象等による水、食料の不足、高騰による飢餓の再来による命の危険性が、近い将来の想定内課題として叫ばれてはいます。しかしこうした声は現在の原発、エネルギー政策の陰に隠れて世論の盛り上がりに欠けていることは甚だ残念であります。

 

こうした危惧感を抱いているのは、私達をはじめとする戦前派や戦争体験者(残念ながら少数派になってしまいましたが)のみでしょうか。飽食の豊かな時代の現在の大多数の市民にとって、こうしたことに思いを致すことは至難のことでありましょうが、少なくとも現在の我国の食料自給率40 % は、原発、エネルギー以上に重要な政策的課題ではないでしょうか。

 

(平成24年3月)

   

(注記;主要部分は平成24年3月の自筆文書です。一部、複数の文書で補っています。

 

そのため文脈に整合性の欠ける部分がありますが、すべてご本人の文章です。

 

201891日「山田光敏さんを偲ぶ会」実行委員会)

  

 以上

 

山田光敏さん自筆の水墨画
山田光敏さん自筆の水墨画

山田光敏さん自筆の水墨画